トルステン・レッシュ博士/2013年秋のヘッドフォン祭(フジヤ・エービック主催)にて |
多くの読者はDACやポータブルヘッドホンアンプ、USBパワーサプライ、チューブ・バッファ/プリアンプなど、手頃で良質な製品を展開するiFi Audioについてご存じだろう。我々は同社iFi microシリーズの iDAC(レビュー参照)やiUSB Power(レビュー参照)、アクティヴ・チューブ・バッファプリアンプのiTube(レビュー参照)など数多くの製品をレビューしてきた。
Abbingdon Music Research (AMR)からもアンプ、プリアンプ、スピーカーシステム、ディスクプレーヤー、DACと言った“リファレンス・クラス”の製品群が世に送り出されている。両ブランドの製品開発を担当するチーフデザイナー、Thorsten Loesch(トルステン・レッシュ)氏はPCM 対DSD、人間の聴覚、管球アンプの魅力の核心に迫る、AudioStreamのQ&Aに快く答えてくれた。彼が回答に割いてくれた時間と労力に感謝しつつ、読者の皆様も私と一緒にインタビューを楽しんでもらえたらと思う。
−−−−トルステンさんがHiFi機器の設計に携わるに至った背景を教えていただけますか?
11歳の頃からずっとHiFi機器の設計や組み立てに熱を上げてきました。振り返ればそれより以前からオーディオいじりに興味を持っていて、幼少の頃からいつも音楽に魅了されてきました。
私が旧東ドイツで育った頃、私の家族は部屋の隅の整理ダンスの上にどんと置かれた「Stradivari 3」という名前の、古くて可愛らしい“Dampfradio” (直訳するとSteam Radio)を所有していました(訳注/Steam RadioのSteamは、「蒸気式の」、つまり「旧式の、古くさい」という意味。したがって、Steam Radioは「旧式のラジオ」という意味)。真空管を使用したラジオです。そのラジオに電源が入ると、部屋全体が素晴らしい音に満たされました。私は豊かで、暖かく、ダイナミックな“Dampfradio”の音に引き込まれ、大きなダイアルに書かれたブラザビル、ロンドン、モスクワ、ニューヨーク、北京、ティンブクトゥ、エレバン と言ったエキゾチックな場所の名前に誘惑されたものです。その後、私はこの古いラジオのダイアルに記された、ほとんどの場所を訪れることができたのですが、この話はまた別の機会にしましょう。
東ドイツ製Stradivari 3管球式ラジオ made by Stern Radio Rochlitz |
わが家にはまたルイ・アームストロングからオペラ『アイーダ』まで、沢山の素晴らしいLPレコードのコレクションがありました。しかし、使っていたレコードプレーヤーは、小さくて造りの悪い、トップカバーに“薄っぺらく甲高い音の出る”小さなスピーカーが組み込まれたソリッドステート・ユニットの製品でした。私はそのレコードプレーヤーの“薄っぺらく甲高い”音が好きではありませんでした。
私がちょうど小学2年生になって、子供図書館の図書カードを手に入れた頃、小規模だけれどちゃんと選定された図書館のレコードライブラリーから、色々なLPレコードを借りられるようになりました。これが私の音楽の地平を広げてくれました。レコードは充実しているのに、唯一、そのプレーヤーの音質だけが気に入らなかったことをよく覚えています。これが私を悩ませ続けたのでした。
東ドイツ製Ziphona Solid 523 Record Player |
私はどうにかして“Dampfradio”を使って、レコードの音楽を聞くことができないものか、試行錯誤しました。簡単にできる方法がなかったので、当時電気工学士だった叔父に聞いてみました。彼はレコードプレーヤーからの出力を、ラジオの入力につなぐための配線を改造する技術を指南してくれ、その信号を伝送するための長いケーブルを作るのを手伝ってくれました。
私はそれから毎日、午後は学校から家まで駆け足で戻り、自宅のレコードを聴いたり、図書館から新しい作品を借りて夢中で聴いていました。キンクス、ジェスロ・タル、ピンクフロイドやビートルズ、そしてヘンデルやバッハたちの音楽を、私はこうして発見したのです。
私はまた、音楽をすばらしくもひどくも響かせることのできるこの技術にも惹かれるようになりました。私は電気工学の本を読み、独学で知識をつけていきました。それはもう、取り憑かれたかのように夢中になったわけで、それはまずかったですね。やがて5年もしないうちに学校の科学技術展で、お手製のHiFiシステムを披露しました。それには、周波数がデジタル表示されるラジオチューナー、6バンドイコライザー付の100Wアンプ、8インチのウーファー、2インチのミッドレンジドーム、1インチのツイーターを搭載した3ウェイスピーカーなどが含まれていました。自分のまさに最初の“オーディオ機器”を、12歳という高齢で(!)やっと作りあげたのだということを、その時はまだほとんどわかっていなかったのでした。
当時、国内(東ドイツ)のHiFiオーディオ産業は、これに匹敵するように見える製品はまったく生産していませんでした。プロフェッショナル用に限られる3ウェイスピーカー、100Wのアンプ、イコライザーといったものなど、なかったのです。ラジオなどは皆、古風なストリング(カーソル)とポインターチューニング仕様のものばかりです。私が作り上げた製品は、ベルリンの中央図書館から取り寄せた西側の雑誌を借りたり、そしてまた米ドルやドイツマルク(どちらも持っていませんでしたけど)で日本から輸入された最新の製品を買うことができる“インターショップ”を訪れたりして得た知識をもとにしているのです。
もちろん、アルミのフロントパネルの成形や、手作業でのドリルとブラシ、ドライ転写のレタリングによるラベル、ほぼ木製のシャーシなど、仕上げは荒っぽいものでしたが、それでも稼働したし、音もかなり良かったと思います。私はこのシステムのために、学校の授業中に回路の設計やフロントパネルのレイアウトのデッサンに時間を費やしてきました。残念なことに、この最初の製品の写真は全く残っていないのですが。
私は見事1等を取り、転げ回るほど大喜びしました。今日になっても、私たちの作った製品が賞を取ったときは同じぐらいの喜びを感じます。
“サウンドエンジニアとしての技能を活かしてお金を稼げるようになるために、「トーンマイスター(サウンドマスター)」の資格を得るための約2年間のコースを修了しなければなりませんでした。”
後に私は電子工学を勉強し、一時期小さな個人経営のプロオーディオ企業(当時の共産主義体制では珍しいものでした)に勤めました。国営ラジオ&テレビネットワーク用にミキシングデスクを作っている会社でした。サウンドエンジニアとして、いくつかのバンドにも関わり、PAシステムも組み立てられるようになりました。サウンドエンジニアとしての技能を活かしてお金を稼げるようになるために、「トーンマイスター(サウンドマイスター)」の資格を得るための約2年間のコースを修了しなければなりませんでした。
コースのプログラムには、当時私はハードロックにはまっていたのにも関わらず、クラシックのレコーディングを習得しなければならない科目がありました。クラシックのレコーディングはシングルテイク、ミニマルなマイクセッティング、そして取り直し不可。後でミキシングで修正なんてこともできませんでした。スコア(総譜)が読めなければならず、リハーサルに出て、どうやって古いアナログのコンソールでゲイン調整を行うか、専門的な技術を習得しなければなりませんでした。
夜な夜な生演奏に参加しながら、レコーディングとライブ両方のサウンドワークを担当し、それに私が力を注いできたプロのオーディオ設計(それは非常に“職人的”な仕事なので、多くの時間を費やしました)が組み合わさったことによって、私がUltra-Fidelityのオーディオコンポを設計する際に今日までなお拠りどころにしている真の基盤が形成されたのです。その後、私はイギリスへ移住し、コンピューターサイエンスで2級の資格を獲得し、財務コンピューターシステムでのキャリアを開始しましたが、オーディオエレクトロニクスへの情熱は片時も失うことがありませんでした。
Joe Roberts 氏の“Sound Practices”マガジンとの出会い、そしてインターネットの普及の草創期でのメーリングリストを通して、私の管球サウンドへの愛情は復活しました(LPレコードへの情熱を失った事はありませんが)。私はすっかり“Ultra-Fidelity audio”の集団に深く関わるようになりました。欧州人として、ドイツ人として、私はまたフランスの流行にも触れて、スイスや(西)ドイツのオーディオシーンにも囲まれて育ちました。日本の「MJ無線と実験」誌や「ラジオ技術」誌には多大な影響を受けました。電子工学のしっかりした背景と経験を持っていることが役立ったのは、間違いありません。
私自身もレビューや技術論文を、Webマガジンの開拓期に登場してきたTNT-Audio, Enjoythemusic.com そして “VALVE the magazine of astounding sound”などの媒体に、折に触れて寄稿してきました。他の人々が設計を商品化し始めた頃には、私は事実上すでに“オープンソース”のDIYキットを完成品に組み込んで販売するようなことをやっていました。その後、私はハイエンドオーディオのビジネスに引き込まれ、私とパートナーたちでAMRとiFiを始めたのです。(続く)
0 件のコメント:
コメントを投稿